Absent, Not Gone
2025
本作は,AIによって生成された架空の人物像をモニターに映し出し,それをさらに望遠レンズを備えたデジタルカメラで撮影するという,多重の媒介構造を持つ. 生成(AI),表示(ディスプレイ),撮影(カメラ)という三段階のプロセスは,写真が現実を「写す」という古典的定義に揺さぶりをかける. 被写体は現実には存在せず,写真にはすでに「像の再生産」であるという事実が露呈している.
この構造は,まずストゥディウムとして作用する. 観者は現代的なイメージ生成技術,モニター越しの撮影というメディア論的関心,そして望遠レンズによる被写界深度の浅さといった写真技法を認識する. それは「そうか,これは写真とは何かを問う作品なのだ」という知的理解を促し,文化的・歴史的文脈に作品を位置づける視座を与える.
しかし,本作が真に揺さぶるのは,そこに潜むプンクトゥムの可能性である. ピントの甘い輪郭や,曖昧に浮かび上がる眼差しの影は,観者の個人的記憶や感情を予期せず刺す. そこに見出される「誰か」は,現実には存在しない. しかし,その「不在の人物」が呼び起こす感情は,まさしく現実的で切実である. この逆説――存在しない者が私を刺す――こそが,本作における新たな写真体験である.
ロラン・バルトが『明るい部屋』で想定したプンクトゥムは,常に「かつて存在したもの」への指標であった. だが,本作は「存在しなかったもの」によって感情を刺し貫くという,ポスト写真的状況を提示する. それは,写真というメディアが「現実の証明」から解き放たれ,なおも私たちの感情を捕らえて離さないことを示す実例であると私は考える.
DEADPAN
2023-2024
目まぐるしいスピードで日々成長をしていく生成AI. ある日,数か月前までできなかったことが可能となっていたり,ユーザーの要望があるないに関わらずアップデートされていく. 一方で,その成長スピードが速すぎるがゆえに最新のものも同様に入れ替わっていく. ユーザーは,新しくできたバージョンの方へとフォーカスしていく. このことは何も生成AIだけに限った話ではなく私たちの日々の日常でも起きている現象のようにも思える. 子供に新しいおもちゃを与える,新しいコートを買う,新しい家に住む,[既にそれぞれ所有しているのにも関わらず]. 当たり前の現象のようにも感じるが,価値判断は別としてそこには人間の欲の存在により成立している. そしてその時,新しくなくなったものへの愛着は新しいものへと移っていく. 私はその流れに人間の儚さを感じ,そのこと忘れてはいけないような気持ちにもなる.
flotsambooks zines tour 2024 参加作品
私 日 常
2023
これは私が視ていた風景を他者にイメージとして伝えるために制作したものである. 私の当時の日常の景色でもある.
2018年11月に私は全身痙攣を伴うてんかん発作を起こし,意識不明のまま病院に運ばれた. MRI検査で脳腫瘍があることがわかった. その後も同様の発作が起き,あるタイミングで腫瘍が微かに増大していることが判明し,腫瘍摘出のための開頭手術を受けた. 2021年4月の事である. 手術後,病理検査の結果,良性であると思われていた腫瘍は悪性であることが判明した. がんを患ったのである. 病名も付いた. 化学療法を約1年かけて行った. その1つの抗がん剤治療は,薬を1ヶ月に5日間連続で飲む. それを12ヶ月繰り返すというものだった. そのためその5日間以外は身体は基本的に元気であった. そこで,近所を散歩したり,遠出もした.
だが,自分が視ているものが何かこれまでと違った. がんを宣告された自分が見る風景は時に眩しかったり,闇がかっていたりもした. 気分の極端な変化だけでいつも行っていた川の景色がこうも違って見えるのかと落胆した日もあった. ただ,それらも私の日常であることには変わりなかった.
flotsambooks zines tour 2023 参加作品
No one can prove ...
2024 -
街には "何かしら" が落ちている. 特に元の原型を留めずに一部が欠損したものや,素材が変色しているものなど,その種類は様々である. それらを拾得し,修復することを試みた.
だが,元の姿を見ていない私には「そうであったかもしれない」という過去に起きていた現象やカタチを現在からイメージすることでしか修復を行うことはできないのである.